日本の古時計/精工舎の時計 P1

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#05 精工舎の時計1
形式 三筋花星八角10インチ合長
年代 明治25・6年(1892・3)
製造 精工舎(石原町製)
文字盤 10インチ
サイズ 高さ:54cm
材質
その他 時打ち、

 振り子室の扉のガラス絵は金二重の丸型となっている。

 ラベルにはマークは無く、石原本所と記載されている。

#05 精工舎の時計2
形式 八角花ボタン10インチ合長
年代 明治25・6年(1892・3)
製造 精工舎(石原町製)
文字盤 10インチ
サイズ 高さ:54cm
材質
その他 時打ち、

 当時のアメリカ製セストーマスをコピーした型と思われるが刷毛目の模様が日本製とわかる程度、良く似ている仕上になっている。

 ガラス絵は日本の風景を描いたものが付いている。

 ラベルには石原町製に良く見られる石原本所の文字があるもの。

 機械の地金板は初期の物らしくスパッリと切れ目に裁断されバリは見られない。

箱の裏には、一部解読困難な文字が含まれるが、
「このとき明治弐拾七年、氏田吉根 求具、□輩金太□」
と、書かれているようで(□は不明文字)、語訳すると、
「このとき明治27年 うじたきちね が ぐをもとむ □(不明「太?)使用人のきんた□(不明「人?)がこれを書く」
と、古文書解読大家の方は読む。

 [精工舎]

 服部金太郎は、万延元年(1860)十月九日、父 服部喜三郎、母 はる子の長男として誕生する。父 服部喜三郎は、名古屋の出身であり古着物を商いとしており、やがて東京(江戸)に出る。

 明治7年(1874)、金太郎は、東京日本橋の「亀田時計店」に丁稚奉公に出るが三年後には「坂田時計店」に入店、懐中時計の修理及び時計販売を修得する。

 明治10年(1877)「坂田時計店」が倒産したためやもなく自宅で時計修理の技術を生かして「服部時計修繕所」を開くことになる。

 明治14年(1881)時計の卸し及び小売販売をする「服部時計店」を開業、当時舶来品の時計は非常に高価であったが、人々は外国に対するあこがれが大きく需要は拡大の一途をしていた。

 服部金太郎の時計店売上は順調に進むが、明治16年(1883)文明開化華やかな頃であったが近隣の出火により「服部時計店」は全焼する。

やもなく店舗を東京木挽町五丁目に移転し再起をはかるが当時の時計需要はますます多くなり店舗は非常に栄える事となる。

 明治20年(1887)9月には東京銀座四丁目に「服部時計店」を開業し、家業は次第に繁栄、外国製の時計の需要が拡大するのを目の前にして自力で時計製造を目指す事になる。

 当時の時計先進地、名古屋の林市兵衛時計工場やその他名古屋の時計工場を視察し現状を把握、服部金太郎は「林市兵衛時計製造会社」成功を目前にし時計製造を決意すると同時に市場や製造に関する問題点も多く学ぶ。

 明治25年(1892)5月、東京本所石原町に空家となっていたガラス工場を買収して時計製造工場を設立(注1)、名古屋の製造能力や技術を把握するとともに服部金太郎は自分自身の考えに基づく時計製造を目的とし工場を作る事となる。

 当時の動力は人力であったが蒸気を動力としたものを設置しようとしたができなかったため、工場の時計製造は始めは順調にいかず2ヶ月間は製造はできず苦心する。

 その後1ダースの時計製造に成功し、工場もやがて軌道にのるが、工場は手狭であり動力も電気が認められず、1年たらずで石原町の工場を閉鎖し、7馬力の蒸気動力を設置しできる東京本所柳島に明治26年10月に移転する。

 明治27年(1894)、東京銀座尾張町角に「服部時計店」を構え、当時流行の時計塔を設置。

 明治28年(1895)、懐中時計の製造を開始する。(二十二型タイムキーパ懐中時計を製造)

 明治32年(1899)、服部金太郎は初めて海外の時計工場の視察に出発、先進的な技術をまのあたりにする。

 明治33年(1900)、帰国後わが国最初のニッケル側目覚し時計の生産を開始、小懐中時計「エキセレント」の生産を開始する。

 明治35年(1902)、二週間巻スリゲル時計、オルゴール時計の生産を開始する。

 明治39年(1906)、服部金太郎2回目の海外視察に出発、この時技術担当者も同行し精密機械工場の実態を見学し帰国する。

 明治40年(1907)以降、帝国大学・其の他、学校の恩賜わの時計に採用される。

 大正2年(1913)、国産初の12型7石腕時計「ローレル」の生産開始

 大正12年(1923)、関東大震災により店舗及び工場を全焼、昭和4年そのあと地に工場を再建。

 その後各地の時計製造会社が時計製造から撤退する中「精工舎」はより精度の高い時計を製造を目指し発展し現在に至っている。

注1) 石原町製時計

 明治25年(1892)、この時の第1期工場は一家内工業的な小さな町工場にすぎないものであったようで東京本所石原町に当時遊休ガラス工場を買収し、技術長に吉川鶴彦を採用し従業員10数名にて設立する。

 当時の石原町は人家の密集地であり手狭で動力も人力にたよって製作をはじめる。動力が非力の為精密部分ができず2ヶ月間は製品ができず苦労するものちに1ダースの時計製造に成功する。

 しかしながら人力では精密な製品が出来上がらず、監督庁に蒸気動力の導入を申し出るも認められずやむなく人力にて時計製造をしていた。

 石原町時代は工場の能力も乏しく家内工業程度であったと思われるが、現存している数多くの時計を見るに想像以上に各種の時計を製造していたと思われ、花ボタン八角10インチ合長、花ボタン八角8インチ合長、三筋花星八角8インチ尾長、三筋花星八角10インチ合長、張四ツ丸ダルマ8インチと種類はあるが、1年と数ヶ月でどれだけの時計を製造していたか。