[神谷時計製造所]
明治初期より続いた時計のブーム、日清戦争による軍需景気を追い風に乗って次々と新しい時計製造会社が生まれた。
しかし、軍需景気が去り、輸出も低調な動きの中、国内においても不況になり、時計の需要は下降線をたどっていた。
其処に又、軍需景気が始まりだし、市場も徐々に上向き出し、時計産業も息を吹き返して、時計製造が又、台頭してきた。
名古屋地域の時計産業も日清戦争後、下火になっていたが明治31年(1898)頃から回復傾向を示し始め、明治32年(1899)頃より時計製造会社が設立される。
明治37年(1905)10月、名古屋市中区西洲崎町に「神谷鶴次郎」が時計製造所を設立して時計製所に着手し、製造会社を設立する。
「神谷時計製造所」、資本金不明、 動力蒸気機関5馬力、 従業員数38名、にて時計製造に入る。
当初は小規模な工場を建て製造を始めるが手狭となり、名古屋市東区南武平町に移転し、「神谷時計製造合資会社」と改名、従業員を増やして時計製造数を上げる。
この頃より、他社に先駆けて大物の時計製造に着手、特に当時流行っていた時計塔用の大型機械を一手に製造する。
全国的に時計塔が流行、しかし大型の時計機械を製造するところは少なく、この分野において神谷時計製造合資会社は、特異な時計製造会社でもあった。
その後、名古屋市流川町に工場を移転、大型機械のほか、特殊機械を製造し激戦区名古屋地方の市場において優位な立場になる。
この頃が、神谷時計製造合資会社の全盛期であり、月産1,000台に達し又、変形時計の製造にも手腕を発揮、数多くの変形時計を製造する。
その代表格が花篭時計であり、奇抜なデザインと特殊な機械により作り出された時計は、好評を博するが、値段が高かった為、販売数は増加しなかった様だ。
一時期、年間製造数14,000台も生産していたが神谷鶴次郎が病に倒れ、明治末期経営を田中定吉に譲り、「神谷時計製造合資会社」は幕を引く事となる。
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