[製時時計製造合資会社(鶏印)]
明治26年(1893)、資産家「小泉徳兵衛」が中心になり、「吉村富三郎」、「西郷浜三郎」らが共同出資して名古屋市に時計製造会社を設立。
明治中期には全国的に時計の需要が急増するにしたがって、時計製造会社が次々に出現したが、名古屋地域においても4番目の時計製造会社が名古屋市清水町(現在の名古屋市東区清水町)に「製時時計製造合資会社」が誕生する。
この当時は軍需景気に沸き、時計市場の需要に製造が追いつかなく全国的に不足気味であった中、名古屋市の「山田鉄次郎」が先行する林時計製造会社の繁栄を真の当たりにし、時計製造を志す。
名古屋地域の時計生産高は、この時既に日本一の製造数を誇っていたが、全国的にはまだまだ時計産業は発展途上であり需要に追いつかない状態であった。
明治26年(1893)12月、名古屋市清水町に地元の「山田鉄次郎」が時計製造合資会社を設立して、時計製造に着手するが先行の時計製造会社と違った製造方法で経営に当たる。
社名は「製時時計製造合資会社」と命名、資本金1万5千円、従業員数36名、動力は不明、製造数は当初年間3,500台を目標として時計製造に着手、明治27年より時計製造し当初の目標を達成する。
先行の時計製造会社は時計の種類も多くして、市場需要に合わせる形で時計を製造していたが、その分切り替えが大変で人件費等に無駄が生じ必然的にコストに反映し経営を圧迫していた。
山田鉄次郎はこの点を改良、時計の種類を少なくしその分効率化を計り、販売店に他社の製品より早く納品することにより、自社の製品が消費者に早く渡る事を優先し経営をおこなった。
其れにより、時計製造において後発で有りながら消費者の手元には時計が早く渡ることにより、「製時時計製造合資会社」の経営は順調に船出をする事になる。
この時計製造会社、最盛期には年間12,000台も製造されているが、現存している「鶏印の時計」はどおいう訳か数が極端に少ないのは何故だろうか不明である。
商標には鶏の絵がデザインされ、鶏印製造所と振り子室のラベルには記載されているが、この鶏印の製造は数年で終わりを告げ、河合時計製造所と改名しているので「鶏印」の時計は珍しい時計の部類である。
その後、日露戦争終結後景気悪化で時計は販売不振に陥り経営を圧迫、河合機械製造所と改名するも明治41年(1908)11月に廃業となる。
廃業後、「山田鉄次郎」個人で時計を製造し、「山田時計」として製造販売したが長続きせず数年で閉鎖に追い込まれ、15年間時計を製造したが廃業となる。
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