[名古屋時計製造合資会社]
明治26年(1893)、資産家「小泉徳兵衛」が中心になり、「吉村富三郎」、「西郷浜三郎」らが共同出資して名古屋市に時計製造会社を設立。
資本金、5万円、従業員数46名、動力蒸気機関を使用、当初月産千台の目標を抱えて名古屋地域において3番目の時計製造会社として製造に入る。
職長には、当時順調に時計製造を続けていた林時計製造会社の技術者「水谷駒次郎」を引き抜き、後発である自社の時計製造に最先端の時計製造技術を得る。
当時水谷駒次郎は林時計製造会社の中において微妙な立場にあったとされ、その前に林時計製造から離脱した名古屋地域時計製造の元祖、「中條勇次郎」の下で明治初期より日本の量産時計製造に携わり、技術においては当時の最高水準の達した技術者であり、その彼を引き抜くことに成功する。
其れにより名古屋時計製造合資会社は時計製造の後発会社でありながら、当初の時計製造を順調に船出することが出来たのと、時計製造台数も大幅に目標を高く立てることが可能となる。
職長、水谷駒次郎は名古屋時計製造会社で製造される時計は、在籍していた林時計製造会社とは一線を隠した時計製造を目指していたので特殊な時計製造にも視点を置き独自に、其れにむく時計の機械を目指して改良を重ね林時計や他の時計製造会社との差別化を図った。
特に形の変わったスリゲル型の時計を製造、この当時の時計製造会社がまだ手を出していない分野に積極的に挑み、新分野を切り開き名古屋時計の製造販売に大いに貢献した。
この名古屋時計製造合資会社、この時期の時計製造会社と少し替わった販売形式を採用していた様で、完成品の時計販売は主であるが機械部分は他の時計製造会社に供給していた。
その証拠に、明らかに名古屋時計の機械であるが、別の時計製造会社のラベルが貼られた時計が幾つか発見され、その時計が組み立て会社の物であれば疑問もわかないが、大手時計製造会社の時計であり論議も呼んだ。
自社で製造した機械を他社に販売するなどして時計製造数は年々伸びを続け、明治27・28年には名古屋で二番目の時計製造数を誇り、日本の一大時計製造会社となったが、明治31年(1898)に筆頭出資者の「小泉徳兵衛」の他界すると共に、資金運営面において徐々に苦しくなり明治37年(1904)に時計製造を中止して廃業となる。
名古屋時計製造会社は11年間に12万台以上の時計を製造したが、現存数はさほど多くは無く輸出向けに製造されたのか、あるいは機械の製造数が記録として入っているのかは定かでないが、明治期に名古屋地域の時計製造会社として君臨していたのは紛れも無い事実でありその特殊時計の製造において功績は揺ぎ無いものである。
名古屋時計製造合資会社は、閉鎖後製造機械一切を水谷駒次郎が引き継ぎ「水谷時計製造会社」となる。
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