[明治時計合資会社]
横田栄三郎、大沢徳太郎、竹内六次郎、等が共同出資で時計製造を画策事業を立ち上げるが中々順調に進まず大沢徳三郎、竹内六次郎両名が離脱し、横田栄三郎個人の所有となるが、その後岐阜の素封家松岡善兵衛が出資し13,000円の合資会社を創立。
後、横田栄三郎が離脱松岡善兵衛が合資会社を買取り、同郷の成瀬初太郎が参画、増資し時計製造を続け名古屋市南久屋町に新工場を建設して移転、時計製造を続ける。
明治28年(1895)10月24日、名古屋市前津小林(現在の名古屋市中区東陽町)に新工場を建設して「明治時計合資会社」を設立、社長には「高木燐吾」が就任し資本金 26,000円、従業員数55名、動力は蒸気機関、馬力不明、時計製造に入る。
明治29年(1896)、30年、明治31年には従業員数72名、時計製造数14,000台と数年は時計の製造数及び従業員数も着実に伸びるが、明治32年(1899)以降、市場激変と販売激化により従業員数は約半数の42名に削減せざるを得なくなり経営も縮小、この時期の時計製造数は12,600台に達する。
明治34年(1901)には、従業員数47名、この当時の「明治時計製造合資会社」の年間時計製造数は18,000台に達し徐々に製造数が拡大する。
明治37年38年、日露戦争突入による軍需景気に助けられ経営は持ち直すと同時に、この時期より軍需部門にも参画し兵器の信管部品製造を開始、時計製造と同時平行製造となる。
大正4年(1915)、第一次世界大戦が勃発、さらに軍需部門の製造が盛んになり、「明治時計製造合資会社」も之に臨場し兵器部品の製造がより盛んになり、時計部門を遥かに超して利益を得、その後大正8年まで軍需景気に沸く。
大正9年(1920)12月20日、会社の存立期間満了に伴い新たに資本金を10万円に増資し、社名を改称し「明治時計製造合資会社」を設立、社長には「高木隣吾」が就任し軍需景気後の経営にあたる。
大正13年(1919)7月10日、この時期の市場経済の状況を見極め、さらに資本金を倍の20万円に増資して会社の経営改善を計る。
大正15年(1926)、「明治時計製造合資会社」の社長、「高木隣吾」が他界、それにともない「成瀬初太郎」が新たに社長に就任する。
昭和5年(1930)、対東南アジア貿易の開始により、今までの工場では手狭であり製造も追いつかなくなり、新たに工場を建設して時計製造を増産することを迫られる事になる。
昭和5年7月、名古屋市南区明治町3丁目に用地を買収し新工場を建設、それに伴い本社機能も新工場に移転新たに時計製造に入る。
昭和15年(1940)10月20日、社長「成瀬初太郎」に変わり、子息の「成瀬勝」が新たに社長に就任する。
昭和19年(1944)2月、「成瀬初太郎、成瀬勝」両名が役員から離脱、之に伴い「阿部広三郎」が新たに社長に就任する。
第二次世界大戦終結と同時に疎開先である工場での時計製造を再開し、わずか半年間で時計製造を起動に乗せ、愛知県丹羽郡古知野町穴戸の「古知野工場」では掛時計製造を再開、愛知県津島市宝町の「津島工場」では目覚し時計の製造を再開する。
昭和22年(1947)、名古屋市西区樋之口町1丁目「好生館病院」の跡地を買収し新工場を建設、時計製造部門を1ヵ所に集中、津島工場は12月を持って閉鎖する。
昭和24年(1949)8月5日、資本金1,000万円に増資、社名を「明治時計製造株式会社」と改称、それに伴い「明治時計製造合資会社」を500万円で買収し社長に「阿部広三郎」が就任する。
その後、時計製造と精密機械を製造して企業存続を図り、特に置時計においては高級時計を数多く製造し市場に送り出して好評を博し、企業発展に大いに貢献する。
明治以来時計製造を行い、その後も機械時計を多く製造し現在も精密機械製造会社として創業を続けている。
|