日本の古時計/尾張時計

#17 尾張時計1
形式 ハバナタイプ
年代 明治中期
製造 尾張時計
文字盤 6インチ
サイズ 高さ:58cm
材質
その他 時打ち、ガラス絵付き

 この時計はアンソニア社の通称、「涙の雫」と呼ばれるタイプをモデルとして造られたものであるが全体に造りが甘く、どこかしら日本的な雰囲気が出ていて、特に時計上部の女性の飾り金具日本人的で微笑ましい。

 この時計は珍しく全体がオリジナルな状態を保っていて程度も非常良い状態である。

 ガラス絵もアンソニア社に良くある時計に付いている、銀彩のガラス絵をそっくり真似た物が付いているがこれも何処と無く日本的である。

 文字盤はオリジナルな物が付きトレ-ドマ-クが良く残り、全体に程度は良いが上下のガラス枠の隙間が開いていて少し気にはなるが時代を考えると仕方が無いか。

#17 尾張時計2
形式 変形掛時計
年代 明治中期
製造 尾張時計
文字盤 6インチ
サイズ 高さ:64cm
材質
その他 時打ちなし、ガラス絵付き、企業宣伝用

 尾張時計は様々な種類の時計を多く製造した会社であるが一番力を入れていたのは時計の精度である。

 明治時代製造された多くの時計の中でも精密な時間を刻んだ時計として行政機関から高い評価を受けていたし、又企業からの宣伝用と依頼されて造られた時計が非常に多い会社でもある。

 企業宣伝用に造られた時計で兵庫県の多木肥料が尾張時計に特別注文して当社の販売元に明治期に配布された物。

 このタイプには色々な種類の物があるがガラス絵が黒塗りのものが一般的使用であり赤色のガラス絵は少ない方である。

 本来は時計の背板に張られるはずの愛知県時計組合の検査表が内部に張られており、尾張時計の商標も同じく張られていて面白い。

#17 尾張時計3
形式 変形型掛時計
年代 大正
製造 尾張時計
文字盤 6インチ
サイズ 高さ:48cm
材質
その他

 この手の型は日本で製造されているのも珍しい形で当時の他社では余り見かけられない時計であり数も少ないものであると思われる。

 アメリカ製時計のコピ-であるが何処の会社の時計を真似たものか判断がつき難いが、強いて言えばセスト-マス社の物か、造りは良く材質も良いものを使ってあり当時は高級機であったか。

 時計全体に彫刻が施されているがやはり日本的な匂いがし、残念ながら文字盤は他社の物に変わってしまっているが雰囲気はそのままだ。

 [尾張時計製造合資会社]

 明治27年(1894)、名古屋市中村洲崎橋に「尾張時計製造合資会社」が設立される。

 資本金、2万円 動力蒸気機関、従業員数約60名、月産500台を目標に工場が建設され社長に「三輪嘉兵衛」が就任、役員には今井藤吉、近藤太兵衛、住田安之助らが参画する。

 明治28年6月、時計製造を本格化するため工場を名古屋市下笹島町に工場を移転充実させ時計製造を再開し、それに伴い従業員数を大幅に増強月産600台を目指して創業に入る。

 明治29年(1896)には従業員数をさらに増強して104名に、翌明治30年には115名になり製造数も飛躍的に伸び名古屋地域の時計製造会社の中でも有数の時計製造数を誇る事となる。

 明治32年(1899)には尾張時計製造合資会社としては過去最高の時計製造数、「年間13800台」に達し製造開始から5年で飛躍的に発展し前途洋々かと思われた。

 しかしながら明治34年(1901)には販売競争激化から従業員を65名まで縮小して危機を乗り切る為方向転換を余儀なくさせられるが、日露戦争勃発による戦争景気で活路を見出す。

 明治39年(1906)5月、資本金を10万円に増資し社名を「尾張時計製造株式会社」と改称、社長には「三輪嘉兵衛」が就任動力を電気に変換して時計製造数を大幅に進歩増産させ市場の要求に答える。

 大正7年(1918)7月、資本金を20万円に増資し「帝國機械製造株式会社」と合併し名古屋地域における時計製造会社の中でもトップクラスの時計製造会社に成長する。

 大正8年(1919)2月、名古屋地域及び全国の時計製造会社の価格競争が激化し、尾張時計製造株式会社も販売が不振になり時計以外の商品開発を推し進め「自動蝿取器」を発明特許権を取得して市場に販売をする。

 これが爆発的に売れ製造が追いつか無くなる程の思わぬ効果を得、不振の時計販売を遥かに超える巨利を得ることにより企業倒産の危機を脱したことは尾張時計製造会社の企業努力でもあった。

 大正9年(1934)6月、名古屋市葵町に新工場を建設して移転、輸出貿易に力を入れる事になるが特に支那貿易に力を入れ時計生産を拡大して行く。

 大正11年(1922)3月、資本金を50万円に増資、名古屋地域の時計製造会社の中でも有数の時計製造数と輸出高を誇り、自他共に認める一大時計製造会社になる。

 昭和14年(1939)6月、資本金100万円に増資、名古屋市東区矢田町に新工場を建設、軍需部門のに進出し航空機関係の部品工場として活動させ時局に合わせ時計以外の部門に力を入れることになる。

 昭和18年(1943)8月、さらに資本金を200万円に増資、社名を「尾張時計航空機工業株式会社」と改称、軍需部門を主力とする精密機械製造会社と方向変換をすることになる。

 昭和19年(1945)10月、資本金350万円に増資、愛知県瀬戸市東町及び津島市に工場を新設し軍需産業に方向転換をし本格的に兵器製造に突入することとなる。

 昭和24年5月、資本金1500万円に増資、本社を矢田工場に移転、葵町の工場と津島工場の二つを閉鎖して矢田工場に一本化して「掛時計」及び「置時計」、そして観賞用の「金魚時計」などの時計製造を開始する。

 特に輸出向けの金魚時計は好評を博し時計の輸出販売に大きく寄与することになり「尾張時計製造株式会社」の戦後再出発の明るい材料となったのである。

 瀬戸工場は自転車部門及び特殊螺子の製造を分担担当し企業の再編成を行う。

 数々の時計新商品を売り出した尾張時計は幾多の変遷を繰り返した後、現在も精密機械製造会社として健在である。

 [資料]

[トレードマーク]
明治・大正期日本登録商標より抜粋

No.1361号 明治32年1月15日

尾張時計製造会社(名古屋市)
No.36428号 明治42年5月25日

尾張時計製造会社(名古屋市)

創業者 三輪嘉兵衛