[尾張時計製造合資会社]
明治27年(1894)、名古屋市中村洲崎橋に「尾張時計製造合資会社」が設立される。
資本金、2万円 動力蒸気機関、従業員数約60名、月産500台を目標に工場が建設され社長に「三輪嘉兵衛」が就任、役員には今井藤吉、近藤太兵衛、住田安之助らが参画する。
明治28年6月、時計製造を本格化するため工場を名古屋市下笹島町に工場を移転充実させ時計製造を再開し、それに伴い従業員数を大幅に増強月産600台を目指して創業に入る。
明治29年(1896)には従業員数をさらに増強して104名に、翌明治30年には115名になり製造数も飛躍的に伸び名古屋地域の時計製造会社の中でも有数の時計製造数を誇る事となる。
明治32年(1899)には尾張時計製造合資会社としては過去最高の時計製造数、「年間13800台」に達し製造開始から5年で飛躍的に発展し前途洋々かと思われた。
しかしながら明治34年(1901)には販売競争激化から従業員を65名まで縮小して危機を乗り切る為方向転換を余儀なくさせられるが、日露戦争勃発による戦争景気で活路を見出す。
明治39年(1906)5月、資本金を10万円に増資し社名を「尾張時計製造株式会社」と改称、社長には「三輪嘉兵衛」が就任動力を電気に変換して時計製造数を大幅に進歩増産させ市場の要求に答える。
大正7年(1918)7月、資本金を20万円に増資し「帝國機械製造株式会社」と合併し名古屋地域における時計製造会社の中でもトップクラスの時計製造会社に成長する。
大正8年(1919)2月、名古屋地域及び全国の時計製造会社の価格競争が激化し、尾張時計製造株式会社も販売が不振になり時計以外の商品開発を推し進め「自動蝿取器」を発明特許権を取得して市場に販売をする。
これが爆発的に売れ製造が追いつか無くなる程の思わぬ効果を得、不振の時計販売を遥かに超える巨利を得ることにより企業倒産の危機を脱したことは尾張時計製造会社の企業努力でもあった。
大正9年(1934)6月、名古屋市葵町に新工場を建設して移転、輸出貿易に力を入れる事になるが特に支那貿易に力を入れ時計生産を拡大して行く。
大正11年(1922)3月、資本金を50万円に増資、名古屋地域の時計製造会社の中でも有数の時計製造数と輸出高を誇り、自他共に認める一大時計製造会社になる。
昭和14年(1939)6月、資本金100万円に増資、名古屋市東区矢田町に新工場を建設、軍需部門のに進出し航空機関係の部品工場として活動させ時局に合わせ時計以外の部門に力を入れることになる。
昭和18年(1943)8月、さらに資本金を200万円に増資、社名を「尾張時計航空機工業株式会社」と改称、軍需部門を主力とする精密機械製造会社と方向変換をすることになる。
昭和19年(1945)10月、資本金350万円に増資、愛知県瀬戸市東町及び津島市に工場を新設し軍需産業に方向転換をし本格的に兵器製造に突入することとなる。
昭和24年5月、資本金1500万円に増資、本社を矢田工場に移転、葵町の工場と津島工場の二つを閉鎖して矢田工場に一本化して「掛時計」及び「置時計」、そして観賞用の「金魚時計」などの時計製造を開始する。
特に輸出向けの金魚時計は好評を博し時計の輸出販売に大きく寄与することになり「尾張時計製造株式会社」の戦後再出発の明るい材料となったのである。
瀬戸工場は自転車部門及び特殊螺子の製造を分担担当し企業の再編成を行う。
数々の時計新商品を売り出した尾張時計は幾多の変遷を繰り返した後、現在も精密機械製造会社として健在である。
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