日本の古時計/高野時計

#16 林時計1
形式 姫ダルマ
年代 明治後期
製造 高野時計
文字盤 6インチ
サイズ 高さ:33cm
材質
その他 時打ち、

 明治後期の製造と思われ精工舎を真似て製造されたものであるが、高野らしい彫りの仕方や飾り金具がそれを主張している。

 高野製姫ダルマは製造数も精工舎製と比べれば製造数や現存数は遥かに数が少ないほうである。

 文字盤はオリジナルな物が付きトレ-ドマ-クが良く残り、全体に程度は良いが上下のガラス枠の隙間が開いていて少し気にはなるが時代を考えると仕方が無いか。

 機械は8インチ物が入っており、精工舎のように小型の時計にあった機械は製造されていない為、外箱を少し削って機械を収める苦肉の策が見て取れ面白い。

#16 高野時計2
形式 極小頭丸掛時計
年代 大正
製造 高野時計
文字盤 4インチ
サイズ 高さ:28cm
材質
その他 時打ちなし、

 この時計は林時計製造所後期に属しラベルは「H.1」のマークになっている。

 金の状態は年代を考えると仕方がないかも知れないが程度は中位いの数少ない時計。

 文字盤もオリジナル物が付き全体にきれいでトレ-ドマ-クも鹿が座っている図柄の物が付いている。

 機械は特殊でこの時計のために設計製造された物でありネジは時計の裏側から巻く仕組みになっており巻くのに手間はかかる。

#16 高野時計3
名称 小型頭丸掛時計
年代 大正
製造 高野時計
文字盤 3インチ
サイズ 高さ:43cm
材質
その他

 高野の小型頭丸は比較的数が少なくシンプルなデザインで生地を生かした造り方になっていて人気のある掛時計である。

 文字盤はオリジナル物が付き旗マ-クが付き機械は8インチ物の機械が無理やり入れてあるように見えガラス絵は無い。

#16 高野時計4
形式 八角型掛時計
年代 明治29年
製造 高野時計
文字盤 8インチ
サイズ 高さ:48cm
材質
その他

 高野小太郎が林時計を辞し時計製造に入った初期の時計で、この時期は自分の工場では製造していなくて他から機械を仕入れて組み立て販売をしたものである。

 振り子室のラベルは白紙にタカノクロックと記載されおり製造工場が出来た当時のものと違い組み立て販売をした当時のラベルである。

 明治29年に購入されたこの時計には「合資会社高野時計製造所」設立前の時計販売をおこなっていた時代の

To sell off Takano

と書かれたトレードマークが貼られている。

 機械には刻印はなく当時名古屋地域で製造された機械であろうと思われる機械が入っている。

 裏側には、明治29年の購入や所有者の住所・名前が墨で書かれている。

 [合資会社高野時計製造所]

 高野小太郎 安政2年岐阜県海津郡今尾町に誕生する。

 明治16年(1883) 名古屋市本町の「林時計」に入り時計販売の修行をし、その後「林市兵衛」が名古屋で始めの時計製造に入り文明開化の時代の流れと、市兵衛の時計製造に成功を見、自分も時計製造を志す事になる。

 明治28年(1895) 「高野小太郎」は林時計店を辞し独立、林時計店で習得した時計販売を目指し名古屋市宮町に「高野時計店」を開業し、後に名古屋の繁華街の名古屋市末広町に時計店を移転、時計の販売を行い時計店が大いに繁盛し販売店として成功を収める。

 この時期から時計製造を志し、当時名古屋地域で盛んになっていた組み立て販売を試みるが、高野小太郎は林時計店で販売競争の激戦区名古屋地区での時計販売は熾烈を体験し、普通の時計では生き残るのは至難の業であると悟る。

 他社が手をつけない時計製造をしない事には名古屋で時計製造を成功させることは難しく、製造会社として生き残るためにもコスト面を考えれなければ経営がうまくいかなくなる事も課題であった。

 高野小太郎は「コスト面」と「製造面」そして「経営面」の3つの問題をこの時期から思索を繰り返し「組み立て販売」を勢力的にこなし、時期時計製造に備えての準備に入ることになる。

 明治32年(1899)5月、高野小太郎は名古屋市前津小林(現在の名古屋市中区大須)に「合資会社高野時計製造所」を設立する。

 資本金1万5千円、従業員数30名、馬力蒸気、製造数月産300台を目標として時計製造に入るが当初の思惑どうりには行かず苦心惨憺の毎日を過ごす事になる。

 これは他社と一線を引き林時計で取得した差別化を遂行した結果で、製品がうまく出来上がらなく当初から難題を抱えていたが、問題点を徐々に解決し製造も軌道に乗ることとなる。

 高野小太郎は体験から他社で造らない特殊な時計を製造する事を目指しており、当時特許を取得していた「傾斜型掛時計」の製造権利を譲り受け製造販売し好評を得るほか掛イタリア型やスリゲル型などの高級機の時計を製造する。

 明治後半、高野時計は製造面において激戦区名古屋を生き抜くため、時計の精度を高め信用を得て順調に製造数を伸ばし、この時期月産500台を突破して当初の目標を達成し中堅企業として確立してゆく。

大正2年(1913) 高野小太郎は掛時計の製造販売が順調に軌道に乗ったのを見届け、高野時計製造所を息子の「高野馬次郎」に譲り自分は金属性置時計の製造を目指し「合資会社高野金属品製作所」を設立する。

 まだ名古屋地域において製造れていなかった金属製の目覚し時計、「へそ目覚し時計」、「角目覚し時計」、「オルゴ-ル付き目覚し時計」等の各種金属製品の置き時計製造に入る。

 金属製時計部門の製造販売は名古屋地域では競争相手は無く、製造販売は高野小太郎の思惑どうり順調に成長して行き、掛時計製造と共に企業の二本柱として成長する。

 大正13年(1924)2月、「合資会社高野時計製造所」と「合資会社高野金属品製作所」の2社を1つに合併して「合資会社高野時計金属製作所」を設立、各種掛時計及び金属製置時計の製造を初めとして電気器具の製造を開始する。

 その後、各種時計製造が順調に推移する一方、時代の流れが軍需部門へと方向を変換して行く事になり時計製造部門より軍需部門が次第に拡大して行き時計製造部門と切り離す事となる。

 昭和13年(1938)4月、金属部門を再び独立させ資本金100万円にて、「高野精密工業株式会社」を設立、軍需兵器や精密機械製造を行い時計製造と両立して企業運営を行う。

 戦後、再び機械時計製造を再開する一方精密機械や水道器具の製造も行いやがてコピー機部門に進出し現在もその部門において創業を行っている。

 [資料]

[トレードマーク]
明治・大正期日本登録商標より抜粋

No.9841号 明治30年10月15日

高野小太郎
No.39869号 明治43年3月3日

高野小太郎
No.53503号 明治45年6月27日

高野小太郎
No.4682号 大正13年9月9日

高野馬二郎
No.4683号 大正13年9月9日

高野馬二郎
No.7960号 大正13年11月8日

高野馬二郎

創業者 高野小太郎

高野馬次郎