[愛知時計製造合資会社]
明治25年(1892)、資産家水野伊兵衛が名古屋の林市兵衛の時計製造成功を見、新規事業時計製造を志し名古屋市東橘町に名古屋地域で二つ目となる時計製造会社を設立する。
社長、「水野伊兵衛」 製造担当に「長谷川喜七」を職長とし資本金は不明、従業員数20数名にて「水野時計製造所」を立ち上げ時計製造を開始、会社のトレードマ-クは丸にSの印、しかし一年足らずで愛知時計製造合資会社に吸収される。
明治26年(1893)5月旧水野時計製造所を吸収合併し「愛知時計製造合資会社」が名古屋市東橘町に誕生する。
社長、「五明良平」、役員、原町鑑次郎、水野伊兵衛、五十川卯三郎、そして水野時計職長の長谷川喜七を採用し水野時計製造所時代よりの機械効率と従業員を充実させ時計製造に着手。
資本金2万円、従業員数48名、動力は蒸気機関5馬力2台にて水野時計製造所を吸収し長谷川喜七を製造担当者とし新たな時計製造に入るが市場の時計に対する要求は益々増えていった。
日清戦争後冷え切っていた景気も幾分か持ち直し、特に東南アジアに向けての輸出が好調であり時計製造各社が増産するも、時計製造が市場の要求に追いつかなく愛知時計製造合資会社も時計を増産しその一翼を補って製造した。
明治31年(1898)7月、市場拡大に伴い資本を増資し時計製造を行うべき製造体制の確立を図るため株式会社に昇格する。
資本金8万円、従業員数98名、蒸気機関の充実を図り「愛知時計製造株式会社」と社名を改称それに伴い役員の改選が行われ五明良平が社長より一般役員に降格する。
社長、「鈴木摠兵衛」、役員、五明良平、青木鎌次郎、水谷嘉助、水野松蔵、日比野広吉、加藤兼次郎らが役員に就任市場拡大と時計製造を増産させるべき新たな出発をする。
明治33年(1900)、国内の時計製造各社の東南アジアに向けての輸出が益々増大し、愛知時計製造株式会社も時計製造を増産して市場の要求こたえるが、此の頃より中小の時計製造会社が輸出向けを乱造し粗悪品が問題となる。
明治36年(1903)8月、愛知県時計製造同業組合が愛知県より認可され「初代組合長」に愛知時計製造株式会社の「鈴木?兵衛」が就任する。
明治37年(1904)、日露戦争勃発により愛知時計製造株式会社に「陸軍」より砲弾の精密部品の受注が入り、時計製造部門と平行して軍需部品の製造との両輪で製造はフル回転する作業がその後続くことになる。
明治39年(1906)、今度は「海軍」より精密兵器製造の受注が入り益々時計製造との両立が難しくなり、社内において時計部門との分離が問題となり軍需部門との切り離しがなされる事となる。
大正元年(1912)、資本金を15万円に増資し社名を「愛知時計電機株式会社」に改称、これを期に名古屋市中川区東川端町に工場を新設して移転軍需部門の製造充実を図る事となる。
大正9年(1920)、軍需部門拡大に伴い資本金を500万円に増資し、新規に航空機製造に着手することを決定航空機製作を開始工場を名古屋市熱田区船方町及び瑞穂区に工場を建設して移転する。
大正14年(1925)6月、会社は軍需部門が拡大し時計製造部門の分離を決断せざる事となり新たに会社を設立にいたり新会社「愛知時計株式会社」を設立して軍需部門と切り離す。
大正15年(1926)2月、愛知AB一型 水陸交換機を完成させ愛知時計電機株式会社は此の年、「青木鎌太郎」が社長に就任す益々軍需部門に製造が偏ることになる。
昭和18年(1943)、愛知航空機株式会社を設立、資本金3000万円に増資、増本敏三郎が社長に就任する。
昭和24年(1949)4月、名古屋市瑞穂区の瑞穂工場を再開し時計製造を再開する。
その後、新愛知時計電機株式会社を設立、「白石豊彦」が社長に就任、時計製造及び量水器や精密機械製造に邁進し現在も創業している。
明治以来、名古屋地域において時計製造会社として時計を製造し続け、現在も存在している数少ない時計製造会社の一つでもある。
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