日本の古時計/小栗時計時計

#13 小栗時計1
形式 変形楕円型掛時計
年代 明治後期
製造 小栗時計製造会社
文字盤 8インチ
サイズ 高さ:47cm
材質
その他 時打ち、

 フランス系の時計をモデルとしたものと思われ日本の家屋にも合う様に貝螺鈿はなくシンプルで、楕円形の木枠全体に黒漆で塗り固められ中央の文字盤が浮かび上がって見える造りになっている。

 小栗時計の数多く造られた時計の中でも数は少なく非常に珍しい時計で黒漆の状態も良く文字盤や振り子渦巻き鈴もオリジナルの状態である。

渦巻き鈴の座金は半田小栗とロ-マ字で鋳造されている。

#13 小栗時計2
形式 真鍮張四ツ丸ダルマ型掛時計
年代 明治後期
製造 小栗時計製造会社
文字盤 8インチ
サイズ 高さ:47cm
材質
その他 時打ち、

 全体四ツの丸枠は真鍮で覆われ所々少し錆びが見えるが余りピカピカよりは趣があってこの方が私は好きであるが人によっては汚いと言う人も中にはいる。

 文字盤はオリジナルでオムスビ型の小栗時計マ-クがあり、ガラス絵は珍しく太枠の4重の金丸が付いて振り子室のラベルも状態はまあまあである。

 小栗時計の機械は3台とも同じ形式のウォ-タ-ベリ-社製の機械のコピ-物が付いていて指針を止める形式は「ピン止め式」ではなく、「ネジ込み式」の物が付いているのが普通である。

 張四ツダルマは普通の振り子が付いているはずであるが、この時計の振り子は鋳物で出来た装飾的な物が付いている。

 振り子中央、丸の中に花をデザイン化し自社のロゴマ-クをあしらい洒落た振り子が付いているが、カレンダ-型の時計にもこれと同じような振り子が付いている物もある。

#13 小栗時計3
形式 八角合長金筋掛時計
年代 明治後期
製造 小栗時計製造会社
文字盤 8インチ
サイズ 高さ:47cm
材質
その他 時打ち、

 8インチ文字盤の八角合長で上の八角部分には金筋が施されているが薄くなっていて分かりずらい。本体全体は程度としては普通で あり刷毛模様が施されている。

 文字盤はオリジナルな状態であり小栗時計のトレ-ドマ-クが残っているが、少し薄くなって全体に日焼けをしているのが残念ではありガラス絵はオリジナルであるからよしとする。

 [小栗時計製造会社]

 愛知県知多郡半田町は早くから港として栄え江戸時代にはこの港から物資が多く名古屋えと運ばれていった。

 この知多地域は江戸時代から醸造業が盛んな土地柄で数多くの醸造元が競い合っていたが明治に入ってからは海外貿易にも進出してますます栄え数多くの資産家が生まれた。

 小栗家もその一つで先祖は船乗りであったが幕末のころ醸造業に転職、味醂の醸造を始め酒造に発展し海運業で成功、一代で財を成したとされ初代が「小栗富次郎」と名乗り、この時期横浜が開港「富次郎」は外国貿易のため横浜に支店を開設大富豪に成長、2代目長男の富次郎が更なる資産を増やしたと伝えられている。

 3代目「小栗富次郎」、慶応3年(1867)知多半田にて次男として産声を上げ名は「幾次郎」、父初代小栗富次郎は家業の醤油醸造「亀甲富醤油株式会社」のほか手広く商売をし外国貿易で多大な富をなし、当時は非常に羽振りが良く幾次郎も父富次郎の背中を見て商売を見習う。

 明治22年(1889)、「幾次郎23才」の時兄死去により家督を継ぎ「3代目小栗富次郎」と名乗る。

 家督を継いだ富次郎は「亀甲富醤油株式会社」を経営し、「知多紡績株式会社」の社長、「兜ビ-ル」の役員、名古屋の貿易商「小栗商店」社長、名古屋の「小栗銀行」社長と数々の会社を持ち多忙な生活であった。

 その後、貴族議員に就任公私共に知多地域における大資産家として君臨していたが横浜における貿易商「小栗商店」が成功し海外の物資が流入、当時流行の「先進事業」時計産業に興味を持ち時計製造を開始する事となる。

 小栗富次郎はこの時期絶頂期であり、東京、名古屋、大阪、神戸に小栗御殿と称せられた別宅を持ち貴族議員としても地位を確立、資金を心配する事なしに新規事業にまいしんする事になる。

 明治30年(1897)愛知県知多郡半田町にて「小栗時計製造会社」を設立、資本金2千円、従業員数約50名、動力蒸気5馬、アメリカ製ウォ-タ-べリ-社の機械をモデルにし時計製造に入る。

 いち早く幕末から横浜商館「ジャ-デン、マゼソン社」の代理店として海外貿易の拠点を横浜に設けていた会社らしくコスト面や量産面、又デザインにおいても垢抜けた時計を製造する事を目的とした計画を持っていた製造会社でもあった。

 小栗富次郎は成功事業家らしく先進時計製造にもその才能を発揮、時計の「出来栄え」や「量産」において自ら陣頭指揮したといわれ、当時同業他社が資金だけを出し経営は他人任せ、尚且つ販売計画もおきざりにされたのと違って富次郎は商社の経験を遺憾なく発揮し、自社の時計を自ら売り込んだといわれ横浜、名古屋の貿易部門の「小栗商店」を通じて海外にも多く輸出された。

 他社が余り手を出さなかったフランスの時計をモデルとしたデザインも日本人にも受け入れやすく、又日本家屋にも合うように製造した点に事業家としての才覚が生かされている。

 当時フランスの時計のデザインは日本の一般庶民感覚や家屋構造にはやはり合わず、日本的であり尚且つ異国情緒も失わずに時計をデザインし市場に販売していることも先進感覚を持った富次郎らしい経営でもあった。

 時計事業は順風満帆の船出をして富次郎の計画どうりに進みかけていたが、日露戦争終結と同時に経営があやしくなり、本体である名古屋の小栗銀行が取り付け騒ぎで倒産、本業である事業も連鎖的に苦境に立たされる。

 小栗富次郎はこの緊急事態に事業を縮小を余儀なくさせられ、明治38年(1905)小栗時計製造会社を閉鎖して機械一式を名古屋の事業家長谷川与吉に売却して時計事業から撤退する。

 小栗時計は「フランス型」、「特殊カレンダ-型」、「八角型」、「丸型」、「ダルマ型」と製造数は多く製造されていたが、何故か既存数が少ない時計の一つで、その原因は海外に多く輸出したせいか、あるいは現在知名度が低いせいで発見されていないのか分からないが今後数多く発見されることを望みたい。

 [営業品科目]

 明治32年(1899)の名古屋大福帳と云う当時の商店街の店の宣伝やら解説をした書物で大福帳形式の長い形をした刷り物、その中には大小の多くの店が紹介してあり今のタウンペ-ジ的書物みたいなもの。

 [商標の解説]

 一の字にオムスビ型は本来「小栗商店の商標」であり、それを明治33年(1900)に時計の商標にも登録されたが、商標のまわりに唐草模様のようなデザインを付け加えて小栗商店ものと違いを出している。