[初代長谷川与吉]
天保13年(1842)名古屋市東区伊勢町三丁目、幡野勘蔵の三男として生まれる。
その後、当時砂糖問屋を営んでいた長谷川与左兵衛の長女ちゑと結婚、長谷川家の入嫁となる。
生家は古着商を営んでおり服部金太郎の父喜三郎とも知人であったと云われその後も服部家との親交を結んだとされる。
実兄林市兵衛が明治三年(1870)時計商を起こし成功するをみて、明治14年(1881)六月名古屋市玉屋町に時計店を開業する。
林市兵衛の援助を受け時計商としては順調に進み、名古屋市において時計販売を拡大し店を大きくしていった。
[二代目長谷川与吉]
慶応2年(1866)十二月二十四日、名古屋市東区宮町四丁目で産声を上げる。
初代長谷川与吉が時計商として開業時十六歳であり、父の店を切り廻して家業を手伝っていたが父の進めにより東京の服部時計店に見習い奉公にでる。
服部喜三郎と長谷川与吉は古着商を商い同郷の二代目長谷川与吉を奉公人として受け入れる。
この時に服部金太郎は父与吉と同じ明治14年に時計商として自立している。
明治20年(1887)、服部時計店に奉公に出た二代長谷川与吉は東京における時計販売の急速な拡大を目の当たりに時計販売及び時計製造に意欲を燃やすことになる。
見習い奉公を短期間に終え名古屋に帰京し父与吉に時計製造を願い出るも受け入れられず支店を玉屋町に出店し、時計製造の資金を作ることになる。
店は林市兵衛の協力により時計店としての売り上げも順調に伸びたが、二代目与吉は新たに時計以外にも商品に目をつけたのが明治29年(1896)のことである。
文明開化の先進的な物を商う事とし、当時流行の自転車と蓄音器の販売を手掛けることになる。
時計販売だけでは利益もうすく、新商品を販売することにより業務拡大をもくろみ、これが当たり時計店として大きく飛躍することになる。
店頭に大蓄音器を置き客に聴かせ、これにより客数は大いに伸び長谷川与吉は時計製造に邁進する。
特に自転車部門は販売業績もよく事業を拡大し時計店とは別に独立し、長谷川自転車商会として実弟に明治37年(1904)経営をゆだねる。
明治38年(1905)、愛知県半田に於いて小栗富次郎が小栗時計の時計製造から撤退するに当たり、製造機械設備一切を譲り受け、名古屋市東陽町に移転、初代ハート・H・精工所とする。
資本金一万円、従業員38名、動力5馬力、このハート・H・精工所、小栗時計の機械一式を移転し時計製造するが当初から各種の時計を製造しているから不思議である。
長谷川与吉なる人物、先見性に富み技術的にもその才覚があったのか次々と変形の時計を製造する。
普通の製造会社は当初から全く別の形態を持った時計は製造していないが、このハート・H・精工所は明治38年の製造開始当初から変形時計を製造すると共に実用新案特許を取得しているから驚きである。
これは事前に計画立案されたものを用意周到に移されたものである。
明治39年(1906)8月10日、連続勾玉形掛時計意匠登録(第三四○一号)取得する。
明治39年10月30日、ヴァイオリン形掛時計意匠登録(第三五七六号)取得。
その後次々と変形のデザインを掛時計に採用した。なかでもハート・H・精工所自身ロゴマークをデザインした掛時計の製造が一番面白く、明治時代に自社のトレードマークを時計にデザインして製造販売を行った時計製造会社はハート・H・精工所以外にはない。当時の人々がハートのマークを四個もデザインした時計を見てどの様な反応を示したのか非常に興味のあるところであるが、これらの時計は売れたのであろうか、それも又驚きと感心するところである。
二代長谷川与吉なる人物、よほど先見性に富みなおかつ実行力と発想のあった人物と思われるのと企業経営者としては素晴らしい人物であったのではなかろうか。
明治時代意匠登録、実用新案を数多く取得している時計製造会社は多くなく、ハート・H・精工所は特出した存在であった。
長谷川与吉は名古屋時計商組合を結成し組合長に推挙され製品の向上と精巧な時計を製造することに力を注ぐ。
この時期、名古屋物と称し粗悪品の代名詞とされた名古屋の時計製造会社は、時計組合が製品管理を行い合格品の時計には愛知県ユニオン・クロックのラベルを貼り付けて市場に出荷し消費者の信用を回復したのである。
明治42年(1909)、中国上海に進出し自社商品の販売拡大を開始し、大いに輸出に力を向け製造工場の充実をはかる。
しかし、大陸の市場変化及び政情不安により販売は低下、大正3年(1914)中国より撤収する。
その後時計及び自転車・蓄音器の業績も順調に推移するが、第二次大戦により工場を移転し製造するも、戦後、工場を閉鎖し時計製造から撤退する。
ハート・H・精工所は数多くの時計を製造し、又、意匠登録や実用新案においても特殊な時計を製造した日本で唯一の製造会社であった。
【写真】
上:明治43年の玉屋町風景と、時計塔を設置した店舗
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