[吉沼時計製造会社]
2代吉沼又右衛門、慶応元年(1865)横浜に生まれ旧性を有泉新次郎という。
実家は横浜で砂糖問屋を営む商家であった。
11歳のとき、父の知人で当時東京兜町で米穀仲買商を営む、初代、吉沼又右衛門家に住込みとして丁稚奉公に出る。
吉沼家と有泉家とは共に甲州出身であり親戚関係であったとされ、丁稚奉公後数年で吉沼家の養子としてむかい入れられる。
当時吉沼家はすでに家業の収益が上がらず苦戦をしていたときであり、養子の又右衛門に家運を託され、2代又右衛門では家業で不振にあえぐ仲買商から脱却すべく時計商を志ざし、明治16年(1883)、日本橋兜町に時計店を開業する。
当時、小林伝次郎、水野伊和造、金田市兵衛など多くの時計商が先駆者として西洋時計の販売に携わり大店舗を構えていたが、精工舎の服部金太郎に遅れること2年である。
又、右衛門は服部金太郎に時計商としては出遅れたものの店舗は盛況で時計商として頭角を現し、明治22年(1889)、日本橋萱場町にボンボン時計工場を設立して時計製造に着手する。
当時の工場は狭く従業員50名、動力5馬力、月産100台に満たなく、 明治23年(1890)、東京小石川区戸崎町及び同区表町に移転し時計製造し、技師長には松下房次郎が担当し製造増産を拡大する。
明治24年(1891)、香港・シンガポール・上海に輸出を開始する。
明治26年(1893)、旧兜町店を改築・新店舗を三階建レンガ造りの斬新な建築物にし、時計塔を設置、この頃より吉沼時計店及び時計製造会社は順調に家業を伸ばし、時計製造を拡大すべく吉沼又右衛門は増産計画を立てる。
明治27年(1894)、従業員96名、動力18馬力、製造数約11,000台と時計製造会社として大規模な工場となる。
明治28年(1895)には時計製造数が飛躍的に伸び掛時計製造数、月産3,600台に達して更なる増産体制を計画する。
明治29年(1896)、吉沼又右衛門は資本を増加して新時計製造会社設立を志す。
社名を吉沼時計から東京時計製造株式会社とし、資本金20万円従業員数240名、製造数月産500台を目標とする。
時計製造技師長に斉藤輝徳を採用、吉沼又右衛門は社長に就任する。
明治31年(1898)、東京日本橋区通二丁目に新店舗を建設して移転する。
この頃より東京時計製造株式会社の経営は順調に行かず又訴訟問題等により社長を退く。
明治33年(1900)、経営不振により工場閉鎖、明治34年(1901)日本橋区通二丁目の吉沼本店を売却。
吉沼時計店本店を南伝馬町に移転して営業するも、明治37年(1904)、服部金太郎に店舗を譲渡して廃業する。
吉沼又右衛門は精工舎の服部金太郎より時計商としての出発は後れたものの時計製造においては3年近くも早く手掛けている。
その時計製造数及び外国に向けての輸出においても服部金太郎の先を進んでいたが、最終的には最後の店舗も服部金太郎に売却することになり両者の明暗が分かれる皮肉な結果となってしまう。
同時期の新居常七も又同じく吉沼又右衛門同様に時計製造において一時期成功するが結果は吉沼又右衛門が一番惨めな人生を過ごしたことになる。
吉沼時計も既存数が極めて少ないのは何故か、時計製造数及び種類においても幅広く製造されているが発見数は少ない。
輸出に主眼をおいていた為に外国に流出してしまったか、それとも国内販売は不振であったのか、今後の発見に期待したい
【トレードマーク】
上:明治22~29年、吉沼時計製造会社時代
下:明治29~37年、東京時計製造株式会社時代
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