[大阪時計製造会社]
大阪時計の製造は東京在住大野規周やその門弟達が製造に深く携わり、その中で田村金太郎他が機械製作を担当したとされているが、詳細は不明である。
明治初期、大野規周が西洋時計製作にあたり数多くの門弟と共にその技術を指導し、明治期の西洋時計誕生に寄与していることは明白な事実であるが記録が余りない。
明治22年(1889)12月14日大阪の有力時計商11名が当時流行していた西洋時計の売れ行きを見、また東京、名古屋、京都の時計製造会社が設立されていることに触発され、これに追従すべく「有限責任大阪時計製造会社」を設立した。
明治23年(1890)12月12日、大阪時計製造会社の商標登録を申請、役員には野口吉兵衛、土生正泰、石原久之助、寺田甚与蔵、山辺文夫、他、大阪地元の有力時計商らが参画している。
明治24年(1891)7月、掛時計の製造に着手、資本金2万円、動力は人力を使用し、ブリ輪と呼ばれる大きな車を人の力によって動かすという原始的な方法で作業し製造していた。
従業員数38名、月産50台に満たなく、機械の精度も出ず苦心して製造に当たるも良品は出来なかった。
明治25年(1892)、西成郡川崎村に新工場を移転し従業員を65名に増加、月産540台を目指し社名を大阪時計株式会社とし社長に土生正泰が就任する。
明治26年(1893)2月9日、新工場の動力に蒸気機関4.5馬力を導入し、製造数及び製品の向上を目指す。
この時期国内では序々に景気は上向きになり消費も拡大して時計の需要も多く求められ市場は良好であったが、時計製造においてはまだまだ未熟であり、国内の時計製造数は増加する一方、市場においては更に競争が激化し価格が下落し始める。
特に名古屋地域での時計製造が飛躍的に伸び、後発の大阪時計製造会社の経営を序々に圧迫し始める事となり製造数は増加すれど販売は苦戦した。
明治27年(1894)、日清戦争勃発により軍需景気に沸き市場は更に競争激化となり大阪時計の掛時計売り上げはなおも減退し経営の危機に直面する。
この頃アメリカ資本は日本国内での企業参入の機会を伺っており、東京、横浜ではうまくゆかずこれに変わる経営参入として大阪に目標を定めていた。
大阪時計株式会社はこの機にアメリカのオタイ時計会社の懐中時計製造機をアメリカ人のバトラーから仕入れて懐中時計の製造に踏み切ることになり、明治28年(1895)、懐中時計の生産を開始、これが日本初の外国機械による大阪ウォッチの始まりである。
新規事業である懐中時計の製造は外国人スタッフ導入により序々に起動に乗りつつあったが、掛時計の製造や販売は相変わらず低迷していたため掛時計事業を縮小し懐中時計製造及び販売に重点を置く事となり新工場を計画する。
明治28年、第四回国内勧業博覧会が京都において開催され大阪時計は振子時計、懐中時計などを多数出品し有功ニ等賞を受賞した。同年12月には懐中時計の本格的な生産のため大阪府西成郡豊崎村に新工場移転し、明治29年(1896)、代表者に野口吉兵衛が就任、株式会社大阪時計として懐中時計主体の製造会社となり従業員数123名、動力20馬力1台、OSAKA、WATCH&CLOCK、Coとなる。
明治32年(1899)掛時計の生産を中止し懐中時計一本の製造会社となるが、明治33年(1900)には経営状態が更に悪化し赤字経営におちる。
明治35年(1902)2月大阪時計製造株式会社を解散、工場及び機械は野口吉兵衛、石原久之助が引継ぎ大阪時計製造所として小規模に経営を続けるが、明治38年(1905)、野口吉兵衛も製造所から手を引き石原久之助個人の経営となる。
この大阪時計製造株式会社は10数年間に渡り掛時計及び置時計の製造をしたが何故か既存台数が少なく、名古屋地域の時計製造会社と競い合い清国及び東南アジアに輸出をしていたが、国内販売は余り多くは無かったのか、それとも国内の多くが未だ発見されていないのか不明である。
その後、石原久之助は大阪時計所を続け、石原時計店として現在も営業しているのである。
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