日本の古時計/京都時計

#04 京都時計1
形式 金四ツ丸ダルマ
年代 明治27年(1894)製造
製造 京都時計製造株式会社
文字盤 9インチ
サイズ 高さ:46cm,28cm(w),12cm(d)
材質
その他 時打ち、

刻印「27□39」は、明治27年の製造番号?39
中央の □のマークは、社名などの変更に伴い異なる

#04 京都時計2
形式 八角花ボタン
年代 明治25年(1892)、初期製造
製造 京都時計製造株式会社
文字盤 10インチ
サイズ 高さ:54cm
材質
その他 時打ち、

 明治24年製造開始するも当初は修理部のみで、実際に時計製造にとりかかったのは明治25年からである。

刻印「25☆14」は、明治25年の製造番号?No.14
中央に星印の刻印があり、後期にはマークが異なる。

#04 京都時計3
形式 金四ツ丸ダルマ
年代 明治27年(1894)製造
製造 京都時計製造株式会社
文字盤 9インチ
サイズ 高さ:46cm,28cm(w),12cm(d)
材質
その他 時打ち、

 時計の裏側には、商標が貼られ、滋賀県の某寺院所有であったことが筆で書かれている。

明治28年(1895)の英文カタログ。
中央には「第3回内国博覧会」の有功二等章のメダルが印刷されている。

 [京都時計製造会社]

  京都時計製造会社は明治24年(1891)、京都市下京区麩屋町通竹屋町下ルに、資本金2万円、代表は名古屋出身の大沢善助、役員他4名、職工長 横山柏、従業員87名程で、当時としては珍しく早くから電力5馬力の機械1台を備えた工場として開業するが、当初は修復業務を主として時計製造はまだしていない。

 明治25年(1892)製造体勢を整え時計製造を開始するが、生産能力が上がらず苦心の日々がつづき良品が出来上がらなかった。大沢善助は先進の名古屋から多数の時計熟練工を京都に導入して時計製造をすることになり、その後しだいに製造能力が上がり軌道にのる。しかし、当時は5馬力の機械1台では製造数量は多くなく、明治26年に資本金10万円を増資し堤弥兵衛の個人会社となる。

 明治27年(1894)には3台の機械を導入し製造数も上り、京都時計製造会社が名実ともに時計製造会社となり知名度も上る事となる。

 明治28年(1895)国内から当時の清国(中国)に輸出を開始すると、同時に京都で開催された第4回内国勧業博覧会の正門に大時計を設置し時計30点を出品、有功二等章を受ける。

 明治29年12月7日、木工部の火の始末による出火により工場を消失し時計の製造はきなくなるが、当時としては珍しく火災保険に加入しており、9万円もの保証金を入手して再製造に着手する。

 しかしながら時計製造はかんばしくなく、明治33年(1900)に京都時計製造株式会社を解散、名古屋に移転し、製造を計画することになるが、尾張時計製造会社との合併が実らず清算することになる。

 明治34年(1901)堤弥兵衛は再び京都時計製造所を京都市聖護院町に移転、従業員数30名程度にて時計製造を開始する。

 この時の動力は電力8.5馬力であり機械も2台と工場の能力としては大きく、製造数も年間に14,400台も製造した。

 明治36年(1903)京都市上京区二条川端東入三丁目に移転し、掛時計・置時計を、清国、朝鮮、ロシア、シンガポール、インドと巾広く輸出するも経営はうまくいかず製造を中止する。

 京都時計製造会は社名や工場を数多く変えたり移転をくり返した会社で、最盛期は明治28年であり、資本金20万円、株主110名、従業員数245名と京都府第12回勧業統計報告に記されている。

 当時の時計会社の中でいち早く電力を動力として時計製造に着手した堤弥兵衛なる人物は先見性を持ち備えた経営者であった。

[京都時計製造会社年表]
参考文献:京都府勧業統計報告書
明治23年(1890)10月 設立 京都の時計商、村田英次郎、家辺徳之助らが中心計画をたてる。
明治24年(1891) 資本金2万円(合資会社)
役員5名、従業員数87名、電力5馬力
明治26年(1893) 社名:京都時計製造株式会社
資本金10万円、株主60名、従業員数208名、
明治27年(1894) 資本金20万円、従業員数225名、電力15馬力
明治28年頃が再大規模となり生産高もピークとなる。
明治29年(1896) 工場より出火するも、保険金にて再開する。
明治32年(1899) 資本金10万円に縮小する。
明治34年(1901) 社名:京都時計製造所となる
京都市聖護院町に移転、従業員数28名に減少する
明治36年(1903) 廃業