日本の古時計/岐阜時計

#02 岐阜時計
形式 四ツ丸ダルマ掛時計
年代 明治後期
製造 岐阜時計製造会社
文字盤 10インチ
サイズ 高さ:55cm
材質
その他 時打ち、

 製造当初は金四ッダルマであったと思われるが、現在は黒漆が表面に出ていて真っ黒で昔の面影はない。写真では見づらいが振り子室のガラスには、蔓竜胆(つるりんどう)のガラス絵が描かれている

 機械は名古屋製のものと思われ、ムーブメントの幅が広く、アンソニア社のダルマに近い

 振り子室には「鵜」をデザインした商標ラベルが貼られている。

 商標ラベルの「鵜」のデザインは、他社の動植物を描いたものと比べ抜き出ていおり、設立者の娘婿の「河合玉堂」が描いたものと思われる。

 [岐阜時計]

岐阜県地図

 岐阜時計は、明治30年8月(1897)岐阜米屋町(小熊町とも)にて資産家であった大洞弥兵衛が資本金1万5千円、従業員10数名で時計製造会社を設立した。

 今まで岐阜時計については資料が乏しく、はっきりした事実が分かず、製造期間も短く数年で姿を消したため知る人もあまりいない幻の時計会社の一つであった。

 資本金1万5千円の時計製造会社であるからには相当数の時計を製造したものと思われるが、何故か既存数が極めて少なく、私の知る限りでは国内に5台の岐阜時計が確認されているに過ぎない。

 この時計製造会社の設立には色々取り立たされているが実際には解明されおらず、一説には、明治維新後岐阜地方の刀鍛冶が職を失ってしまったための振興策として時計製造会社を設立したとも言われていた。しかし、従業員数10数名程度では振興策としてはそれに値しないと思っていたが、それが思わぬ形で解明できることになるとは夢にも思っていなかったのである。

 平成5年(1993)に明治村にて改暦120年記念の時計展が開催され、それに伴い私が岐阜時計を出展し、偶然にもその出展されていた岐阜時計を大洞弥兵衛の孫、大洞重成氏が見学していた。

 その後、大洞重成氏が我家を訪問され色々な興味深い話を聞くことになり、意外にも大洞弥兵衛と後藤満蔵とのつながりを知ることになったのである。

 後藤満蔵は津田助左ェ門(注1)の職方として明治維新まで和時計製造に従事しており、明治に入り津田家を辞していち早く西洋時計輸入等の販売を手がけ成功を納め、当時は時計の他、色々な先進的な機械や高岡の銅器も取り扱っていた商社的存在でもあった。

 一方、大洞弥兵衛は当時議員でもあり幾多の事業を展開しており、その中に高岡銅器の販売も行なっていた。

 大洞弥兵衛と後藤満蔵の両者は実業家として当時最新の時計製造に意気投合したのではないだろうか。明治30年時計製造技術を持つ職人らも同時に後藤満蔵の援助を受け時計製造に着手しており、それゆえ岐阜時計の機械が名古屋製と同じような物に仕上がっているのも理解できるのである。

 私が見た現存する岐阜時計は、四ッ丸ダルマが4台、八角時計が1台であり、3台は本ダルマ、一台は張四ッダルマであり、これらの岐阜時計の全ては鵜のデザインラベルが貼られているのを確認している。

 岐阜時計の商標ラベルはこの鵜飼の鵜をデザインしたものが1種類だけしか発見されていないようだ。4台とも製造当初は金四ッダルマであったと思われ、現存する物の程度は抜きにしても金四ッであった証がガラス枠の縁に少し金箔が残っていることから判断できるのである。

 形式としてはアメリカ製のアンソニアの本四ッ丸型と同一の様式であり、現在は黒漆が表面に出ていて真っ黒で昔の面影はない。

 そして、もう一つ岐阜時計の最大の特徴である商標やガラス絵に意外な新事実が明らかになった。

鵜飼い

 岐阜時計の背板に貼られている黒色の商標ラベルに岐阜長良川で行なわれている鵜飼の鵜がデザインされており、振り子窓のガラスには蔓竜胆(つるりんどう)のガラス絵がデザインされている。この二つのデザインが日本画の大家「河合玉堂」(注2)の作であるという事だ。

 岐阜時計と河合玉堂との関係を説明すると又意外な事実があったことに驚く。

 実は、岐阜時計を設立した大洞弥兵衛の娘が河合玉堂に嫁いでいたのである。「事実は小説よりも奇なり」と言われるように当時最先端のハイテク時計に日本画の大家が関係していたとは。

 明治26年(1893)、河合玉堂が20歳のとき大洞家の次女と結婚した。この年に玉堂は、鵜飼の「藍川漁火図」を発表しており、生涯五百点を超える鵜飼の図を描いたといわれていた。そして、明治20年(1887)ごろから岐阜の産業界では長良川の鵜飼の鵜をシンポルに取り入れ、玉堂も提燈の図柄を描いていた。したがって当時描いていた鵜を時計のラベルに採用したのかも知れないと思われことや、ガラス絵もラベル同様他の時計には見られない日本画らしいデザインの蔓竜胆が描かれていることがそれを表している。

 河合玉堂が妻の実家の時計製造に一役買ったとしても、それはごく自然の理であったのではないだろうか。

 明治期幾多の時計製造会社が自社商標に心血を注いでいたことは言うまでもない。

 色々なデザインが考え出され時計の振り子室に貼られたが、一目見て何処の県で製造されたのか直ぐに分かるラベルは岐阜時計のそれをおいて他にはない。

 この岐阜時計は存数が極めて少ないのはどうしてだろうか。

 名古屋地域の激戦区を避けて岐阜地方だけに販売されていたのか、それとも輸出に主力をおいていたのか残念ながら現在のところ不明であが、大洞重成氏によれば、岐阜の大火がありその時に資料も含めて全て消失してしまったとのことで、今では推測をするしか手立てがない。

(注1)津田助左ェ門
 徳川家康に献上された時計の修理した京都の鍛冶職人。
 日本で初めて作られた時計といわれており、その後、尾張家のお抱え時計師として多くの「和時計」を時計を作った。

(注2)河合玉堂
 明治6年(1973)愛知県木曽川町に生まれ8歳のとき岐阜市米屋町に移り住み京都で本格的に絵を学んだ日本画の大家。明治23年より「玉堂」と号し、自然と人生を調和させるという永遠のテーマを描き続け、日本の風景の情緒を最もよく表現した画家のひとりと評価されている。

(絵)
 河合玉堂が描いた「藍川漁火図」の一部で、岐阜時計の商標ラベルのデザインに近い鵜の構図が描かれている。