中條勇次郎製造の時計の外観は全体に漆が塗られ豪華な作りになっている。一般的な時計の外箱はニスが塗られているのが通常で、特別注文の時計以外は漆塗りはなされない。 全体に時計の縁は金箔がなされており日本で現存する3台のなかでは一番程度が良い。 |
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機械は旧式で大型の形態で、地金は厚くバリも無く出来は非常に良い。 同時期の他の時計と比べると数段上の技術であることがよく分かる。 機械はアメリカのウェルチやセストーマスと同じ旧式の大型の形態をしており、ビスをとめる足はなく通称カマボコと言われる板を用いて背板に固定されている。 |
機械は旧式で大型の形態で、地金は厚くバリも無く出来は非常に良い。 同時期の他の時計と比べると数段上の技術であることがよく分かる。 機械はアメリカのウェルチやセストーマスと同じ旧式の大型の形態をしており、ビスをとめる足はなく通称カマボコと言われる板を用いて背板に固定されている。 |
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振り子室のラベルは白紙を用いており程度も最高の状態である。 製造人 中條勇次郎、愛知県下岡崎連尺町、一手販売所、愛知県下名古屋、本町4丁目、林市兵衛 |
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写真では分かりづらいが渦巻きリンのとめ金に「YUJIRO OKASAKI」とある。 |
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裏の背板には旧所有者「内保村 権左エ門」の名前が書かれてあり、最終修理票が貼られている。 |
最終修理票には昭和14年2月27日に現存する長浜市虎姫の時計店「番野時計店」のラベルが貼られている。 |
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[中條勇次郎] 中條勇次郎がどういう経路で時計製造の技術を習得したかは不明で、明治初期に愛知県下の岡崎の地でいかに時計製造の技術を習得したかは推測するしかない。 江戸時代名古屋地域は良く知られているように、津田助左エ門(注1)が御用時計師として君臨しており、幾多の門下が巾を利かせていた。明治維新後、津田家の職を辞した者たちが西洋の時計製造に関わったことは良く知られているが、中條勇次郎がそれらの人物から時計製造の教え請うたかは定かでない。従来の定説では、中條勇次郎は飾り職とされているが私は疑問視している。 時計製造のみならず製造機械まで発明している勇次郎がそんな職人と言われているだけではたして時計製造が出来たのであろうか。明治初期に西洋時計をコピーして、そく中條流の時計を作り出せたのはなぜだろうか大きな謎である。 中條勇次郎の生い立ちを詳しく述べると次のとおりである。 安政5年(1858)2月、中條勇次郎は岡崎連尺町にて産声をあげ、父勇吉、母とめ、家は紅(べに)を商い、屋号を「紅屋」という商家であった。明治5年(1872)名古屋の士族の娘つねと結婚し、明治8年(1875)には弱輩17歳で時計販売業を始め、同12年21歳で医術用電気機械を発明し製造する。中條勇次郎なる人物は、元来手先が器用であったらしく、いろいろな機械の製作や発明を数多く手がけ、本来の時計商のみならず、時計製造を志すことになる。 中條勇次郎は明治5年(1872)、まず時計製造機械を発明し機械による時計製造に着手し、国内で最初に量産できうる時計製造をめざして試行錯誤をくりかえしていた。そして名古屋市に在住していた職人の水谷駒次郎と出会い時計製造において意気投合し協力を得ることになる。そして仲間として阿部鉄次郎、鈴木庄太郎らを同時に雇い入れ掛時計製造に前進する。 中條勇次郎の試作した時計に水谷駒次郎らの意見を取り入れて苦心惨憺の末、明治18年(1885)掛時計の製造に成功するのである。前にも述べたが中條勇次郎がどういう経路で時計製造の技術を習得したかは不明であると同時に資金についても多くの謎が残る。 地方の時計商が当時最先端の時計製造をすることも驚きであるが、それと同時に資金が何処から出たのかも興味がわき、そして資金がなぜ続くのか不思議であった。しかし、この天才時計師は、時計を量産することに成功したが、製造した時計を大量に販売する販売網を持っていなかった。これまでは林時計製造会社の林市兵衛が愛知の時計製造の元祖とされていたが、明治41年に書かれた愛知県時計製造組合の雑所綴の内容が、平成5年に犬山明治村の伊藤利春氏の手により解読された。その中に中條勇次郎が愛知県で最初に時計の製造に成功したと記載され、また今まで2台しか製作していないと伝えられていた時計が、2ダースも製作されていたことも記載されていることが明らかになったのである。 さらに、194個もの組み立てていない時計部品が存在し、これを明治20年(1877)6月、林市兵衛が中條勇次郎より時計製造機械を金1200円でゆずりうけ、自分の工場で組み立て販売したこともわかったのである。 中條勇次郎が目指したのは国産で量産製造が可能な掛時計を製造することにあった。自ら時計製造機械を発明し手工芸的な時計製造をしていた当時の人々と一線を引くことに主力をおいた点が中條勇次郎が現在量産時計製造の元祖としての存在であると私は思うのである。そして中條勇次郎が産み出した時計が名古屋の時計産業の礎となったことは疑う余地がない。しかしその後も製造がつづくのかとは思っていたが、その疑問はすぐに現実として現れてくるのだが、それは推測の域を脱し得ない。資金不足の末かは不明であるが中條勇次郎は販売権を譲渡したのち林市兵衛が「時盛舎」(注2)を起こすに伴い技師長として時盛社の時計製造に参加する。職工長に水谷駒次郎、そして阿部鉄次郎、鈴木庄太郎らも中條勇次郎配下として時盛舎に移ることになる。 その後、中條勇次郎は数年で時盛舎をやめ岡崎で時計の研究に没頭することとなる。やはり企業の中で技師長としての存在ではなく中條勇次郎としての個人的な行動力と発明力はおさまり切らなかったのであろう。また時計製造に対する林市兵衛との考え方の違いもあったのではないかと思われる。 中條勇次郎は明治32年(1899)に2週間巻きの掛時計の特許を取得するが、その年に永眠する。 一大発明に没頭し数多くの業績を残し明治41年には愛知県史に時計製造の元祖としての名、中條勇次郎は刻まれている。 (注1)津田助左エ門 (注2)時盛舎(じせいしゃ) |
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[古時計よもやま話] 明治初期、外国から輸入された時計をモデルにして日本各地で多くのコピー時計が造られた。 東京・名古屋・大阪・姫路等の各都市が中心であったが、その他の地域、数箇所でも欧米等のコピー時計が製造され、当然、初め頃の時計製造は手工業的な程度の工場であったものと思われる。 東京では小規模に時計を製造していたが、国内の需要が増すにつれて製造数が追いつかなくなり、必然的に大規模な工場が必要になってゆき、その中から機械製造にて量産を目的とした時計製造が日本で最初に名古屋地域で始められた。 明治15年(1882)、中條勇次郎は機械による量産を目的とた時計製造を目指し、明治18年(1885)に成功させ、幾度となく改良を重ね、後にこれを完成した。 その後、日本各地で多くの時計製造会社が誕生したが、長くは続かず「生まれては消え」、「消えては生まれる」と言った具合で、めまぐるしく変化をしていくことになる。 その中で、時計の製造数において一番多かった地域は名古屋地域で、二番目に大阪地域、三番手に位置していたのが東京地域であり、工場の大きさもさることながら製造数は製造工場の数によって変動し、その中で名古屋地域での時計製造工場は、他の地域を遙かに越えており最多の工場数を誇っていたのである。 一般的には、明治期いかにも東京地域が時計の最大生産数と技術を誇っていたかのような印象を与えているが、実際には東京地域の時計製造工場数は家内工業規模の製造所を含めたとしても6社程度であり、この事実は世間で余り知られていなかったのは、現在まで継続して詳しい研究がされていなかった為ではないであろうか。 大阪・姫路・高岡・新潟・横浜等の他の地域も同様に特に詳しい研究報告がなされてなかったが、その中で、名古屋地域の時計産業の研究はかなり進んでおり、時々目にする機会があった。しかし現物の時計と比較した研究はされてないようで、今までに目にしたことがない。文献ばかりが先行して「事実に当てはまらない、現物を見ないで書かれた文章」や、推測による「断言めいた文章」がいかにも事実かの様に伝わっているのは非常に残念なことだ。 やはり「現物に勝るものは無い」と私は思う、又そう有るべきではないだろうか。 今まで、色々な文献を目にしてきたが、現物と極端に違っていた事実をまのあたりにしたこともり、文献と現物が余りにも違っている時計を手に入れたときなどは、この時計は果たして「オリジナルでは無いのでは」と思ったことも多くある。 実例をあげれば中條勇次郎製造の時計が一番分かりやすく、某、有名大学の大先生の文献では「中條勇次郎製造の時計は2個しか存在しない」、その1個がこの時計であると書かれていた。これが30年も前の話であり、その直後に私が「中條勇次郎製造の時計」を手に入れたことになるが、私が中條勇次郎製造の時計を手に入れたことをある関係者に話したが、その時点では「中條勇次郎製造の時計が有るわけが無い」とそっけなく簡単に言われた。 その後、手に入れた時計を明治村の学芸員に見せることになるのだが、学芸員も半信半疑だったが時計を見たら顔色が変り、資料と突き合わせ大騒ぎになり、「中條勇次郎製造の時計」と確認して家に持ち帰った。 しかし、平成5年(1993)犬山市の明治村で「時計展」をすることになり、「中條勇次郎製造の時計」の出展依頼があり、国立科学博物館の時計担当の学芸員が見て「中條勇次郎製造の時計とは機械が違うのではないか」と言われ、いくら私が写真の時計と同じラベルが付いていると説明しても取り上げることはなかった。それどころか遂には「機械が違い偽り物である」とまで断言されてしまったため展示する事を中止した。 後日「中條勇次郎」の関係者(3代目の中条勇次郎氏)を明治村の学芸員が探し、明治村で見てもらうことになり、昭和17年(1942)に本人が修理した「中條勇次郎製造の時計」で有ることがわかり、本物であることを確信することとなった。 では何故、こんなひどいことが起きるのかを考えれば、答えは一つである。中條勇次郎製造の時計は、一般の人は「見たこと」も、「聞いたこと」も無いはずで文献のみが頭の中に記憶されているに過ぎず、この時計が中條製であると言われても信じがたいのはうなずける。しかも、中條勇次郎製造の時計は2個しか存在しないとすでに出ている文献の影響も大きい。 しかも、その文章は明治時代に愛知県史作成の折、当時の関係者からのヒアリングを元にした文章だが一般では知られていないし、また公表もされていない。 よって中條勇次郎に関する文章が正式に世に出てくるには、それから暫らくしてからのことである。しかも、その文章を書いた本人は前記した人物、某有名な大先生が昭和16年(1941)に書かれた文章が、たぶん最初ではなかろうかと思う。 その文章を私も読んでいるし、その新聞記事もコピーながら手元にあるが、その中にははっきりと「この世に2個しか存在しない」と書かれている。 この記事が後になって重大な意味を持ってくることになるが、本人も当時そのことは全く気付くことはなかった。 それは、平成5年(1993)に私が明治村での時計展を開催するにあたり、明治村の伊藤氏と中條勇次郎に関する関係資料を調査していたところ、中條勇次郎の業績の中で今までに世に出ていない重要な事実が出てきたのである。 それは、あの大先生の寄贈資料の中から見つかったもので、中條勇次郎に関する重大事実を発見したので、名古屋時計協同組合雑書綴りの「中條勇次郎に関する資料」にその事実は存在していた。 「雑書綴り」とは、ちょっと意味が違うかもしれないが、色々な分野の書類が渾然と綴られた書類の束あると思っていただきたい。 その中で、中條勇次郎製造の時計の記述は、中條勇次郎が自らの時計製造に関することを記述したもので、その中に「時計製造を志し、遂にこれを2ダース完成、そのうちの2個を名古屋の林市兵衛に見せた。」との文献が存在したのだ。 つまり「2個しか存在しない」といわれていた時計が、「2ダースも造られ」ており、さらに組み立てていない時計が「194個」も存在していたことが記載されていた。 これは大先生が自ら「2個しか存在しない」と発表したのも、事実の認定に自分の資料でありながら、なぜ間違った発表をしたのか理解に苦しむのである。 いずれにせよ時計の第一人者とされる人物の文章が、先行して事実と異なっいてたことが一人歩きしてしまった事例である。 そうした事実をふまえ、私は「いかに現物と比較した上」での立証が大切であると痛感し、みなさんもこのような事実があることを念頭において、色々な文献を読まれることをお勧めしたい。 私自身も例外ではなく自分の文章も現物との比較において持論を今後も問いていきたいと思っている。 「事実は一つ」であるが、文献は数多く世に出ているのも現実で、それをどう受け止めるかは読まれた方に課せられた課題だと思っている。 数多くの文献を読み、その中で自分自身が人の文献を鵜呑みすることなく研究されれば、おのずから疑問や事実が浮かび上がってくると思うものである。 (写真:上) 「中條勇次郎製造の時計」が展示されている明治村の旧三重県庁 (写真:中) 明治村の古時計の展示コーナー (写真:下) 明治村に展示されている「中條勇次郎製造の時計」 |